2012年3月6日火曜日

ポーランド旅行 15 アウシュヴィッツ強制収容所:dwa

また最初に書いておかないといけませんが、

見ると気分を害される写真や表現言葉、だれかが傷つくから語ってはいけないと考える人がおそらくいるだろう事柄についてブログにします。

実際アウシュビッツに行く前の自分なら確実に目をそらしてお得意の現実逃避で
己には関係のない話と
おざなりにまやかしかけていましたが、

それは、ちょくせつ手をくだしていないだけで、ナチスの将校と何一つ変わりない本当に同じ事なんだと考えるようになったからです。



当時、ドイツだけではなく、ヨーロッパ全域、そして世界中で一番多かったのは見てみぬふりをする

傍観者だったと中谷さんはガイディングで語りました。



私の知識にあるだけの貧相な言葉数では上手く伝えられそうもないので、

また森達也さんの「いのちの食べ方」の中から抜粋させてもらうのですが、

1946年八月ちょうど終戦一年目に映画監督の伊丹万作さんが書いた「戦争責任者の問題」というタイトルのエッセイを引用していてそれがアウシュビッツを含め全てを語っていると思うので、私もそのまま引用しちゃいます。



「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。
みながみな口を揃えてだまされていたという。

私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。
ここらあたりから、もうぽつぽつ分からなくなってくる。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、
はっきりしていると思っているようであるが、それがじつは錯覚らしいのである。

たとえば民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。


上のほうへいけば、さらにもっと上のほうからだまされていたというにきまってる。
すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、
いくら何でも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるわけのものではない。(中略)


つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだと思う。」






今とにかく私は「知らないと」という気持ちだけでキーボード叩いてます。




4号棟には、規則違反で撮られた貴重な写真や、資料類が展示されています。

ここアウシュビッツに連行されてきたユダヤ人が列車から降りる際の実際の写真。

運搬に使用されたのは客車ではなく有蓋車という貨車だったそうです。

働けない子どもに価値はないと考え、子どもを安心させるためについてすぐ、
母親とともにガス室へ送られました。

殺害された子供の数は、32万人と言われています。


ここで、軍の医者によって選別され、
労働に適さないと判断された場合は、
そのままガス室へ連れていかれました。








2階に上がります。


この先は中谷さんが

「他の場所はよいですが、ここだけは撮らないでください。」


と言われたので写真は写していないのですが、年月によりかなり痛んでいる髪の毛が縦長のガラスケースに膨大な量敷きつめられていました。

囚人の髪を切り、繊維の材料として出所を伏せて流通させていました。


ガス室の模型



ガス室で使われたチクロンBは1缶で150人を殺せる劇薬






1937年までは強制収容所の囚人は反ナチ派の政治犯が主でした。

ヒトラーは国会議員でしたが、当時あまり支持は得ていませんでした。しかし連立政権を組み、大多数派となった
途端、反対する者を政治犯とし排除することで首相に上り詰め独裁政権を始めました。

民主主義がヒトラーを生んだと言えます。


いったん政治犯を捕らえてしまえば罪状をつけて


囚人服を着せていかにも危険な人物かのように写真をとり、テロリストとして彼らを「定義」することで、監視員の罪悪感をそぎ女性は髪を切られ
そうされることで自尊心を傷つけられ徐々に自らがテロリストである事を自覚しおとなしくなり連行しやすくなるそうです。


見事というと語弊がありますが、先進国ドイツはちゃんと心理学も理解した上での巧妙なブレイン・ウォッシュを施していたのですね。

そして囚人には逆三角形のバッチを付けさせました。

赤は政治犯、黒はジプシー、ピンクは同性愛者、緑は刑事犯罪者、紫色はエホバの証人、黄色がユダヤ人、

色の違いで扱いが違い、ヒエラルキーが存在し、させる労働が変ります。

これらのイメージはけしてナチス・ドイツが植え付けた訳ではなく、すでにヨーロッパにあったもので、そのイメージを利用しての色分けです。



アウシュヴィッツでは囚人番号を左腕に入れ墨で入れていました。

イレズミと言えば聞こえはいいようですが、針をドンと押して墨をたらしただけです。

囚人服は脱走してもすぐ分かる誰が見ても“囚人”と思えるもの
靴は木靴を履かされます。



1階建てだったのを2階建てに改修したそうで、よく見ると、レンガの色が少し違うのがわかります。 


おびただしい数の押収されたメガネ



義足が並べられた部屋です。

身体障害者や精神障害者、同性愛者など、社会の効率を考えたドイツは徹底的に排除を行いました。

なのでドイツ人でも収容の対象でした。










収容される人々が財産を詰めて持って来たトランクには出身と名前を書かせまた帰って来るという安心感を与えさせました。



お金になる品物はそのまま貨車に積まれて、ベルリンなどに運ばれました。







子供からの没収品

8万足の靴

こうしてここに残されているのは皮としてお金にならない物だからです。


くし 4万9,000本






反ナチス活動家、共産主義、同性愛者、ポーランド人、ロマと色分けで階級をつけていますが、その中で一番低いとされていたのがユダヤ人だそうです。

ドイツ兵たちは自らの手を汚さないため、囚人の中でもユダヤ人やロマ以外の人を監視役(カポー)につけ他の囚人を痛めつけました。



そうしなければ右端で笑っている正式な監視員に命を奪われてしまうのです。

この囚人を囚人の監視にさせるシステムにより、ドイツ兵は戦争が終わったあとも罪悪感にさいなまれることなく、

「自分たちは国家政策に基づいてやっていただけで、我々も被害者の一人。」

という戦後の最低の弁解で謝る監視員などいなかったそうです。

なぐるなぐられる関係にあった囚人同士が一番戦後平和を築くのに苦労し、支配階層側はあんがい立ち直りが早かったそうです。

学校の中のいじめと同じで、いじめた子は3ヶ月ぐらいで忘れるけど、
いじめられた子は一生覚えている関係とまったく同じと

中谷さんのお言葉です。




さらに続きます。




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