2010年11月29日月曜日

フランス印象派イヤー

今年は、印象派の展覧会が多かったです。
六本木ヒルズ「ボストン美術館展」、
三菱一号館美術館「マネとモダン・パリ」、
国立新美術館「オルセー美術館」
横浜美術館「印象派とエコール・ド・パリ ポーラ美術館コレクション展」、
        「ドガ展」
国立新美術館「ゴッホ展」、

その中で、私は三つ観にいけました。


最初は、4月6日~7月25日までやってた、三菱一号館美術館 開館記念展「マネとモダン・パリ」を観にいったのですが、


一時間半まちとかで、込んでて観るの大変そうだったので断念しました。


横浜美術館の企画展で、7月2日から9月4日までやってた「ポーラ美術館コレクション展 印象派とエコール・ド・パリ」展 は観ました。


横浜美術館の設計は代々木第一体育館や東京都庁舎第一本庁と同じ丹下健三です。

2・3階が吹き抜けのグランドギャラリーと呼ばれるエントランスがあり、左右に展示室があります。左側が常設展で、右側が企画展で使われます。

美術史的区分に分けると

印象派〔モネ、ドガ、ルノアール、ピサロ、シスレー、〕

新印象派〔スーラ〕

後期印象派〔セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ロートレック、〕

とに分類されるそうです。
 
《 サン=マメスのロワン川 》  1882年 アルフレッド・シスレー

アルフレッド・シスレー( 1839年 - 1899年)は、ピサロに「 印象派の中の印象派 」 と称されるほど終生、、印象派らしい風景画に固執し続けた画家です。初期の頃の絵は、その色彩が地味で暗い感じの絵が多かったのですが、晩年は多彩で明るい色使いに変わっていきました。

《 ロワン河畔、朝 》  1891年 アルフレッド・シスレー

モネやルノワールは晩年には、巨匠として高く評価されましたが、シスレーは死ぬまで高い評価を得ることはなく、1899年に60歳で亡くなります。経済的環境は年をとるほど苦しくなっていき、認められない辛さ、悲しみとかあったはずなのに、絵は爽やかな明るい色調に変わっていったのはどうしてなのか?
どういった心境、心もようがあったのでしょう。

私は必ず音声ガイドを借ります。



横浜美術館が所有しているコレクション展については、写真撮影が可能なので撮ってみました。




サルバドール・ダリ 「幻想的風、景暁、英雄的正午、夕べ」1942



横浜美術館近くに、ポケットビスケッツの二枚目のシングル、「YELLOW YELLOW HAPPY」のジャケ写に使われた巨大オブジェがありました。










二つ目は、ブリヂストン美術館、「セーヌの流れに沿って」展が、12月23日まで開かれているので行きました。


日本橋で降りたので、地上に上がると日本橋高島屋(旧日本生命館)がありました。

最初は「日本生命」の建物として造られました。
竣工は、77年前の昭和8年(1933年)です。「高島屋」は日本生命から賃貸という形でこの建物に移転しました。現在は高島屋に所有が移っています。
ルネッサンス様式を基調としています。

2009年6月30日、百貨店の建物としては日本で最初の重要文化財の指定を受けました。建設は高橋貞太郎で旧前田侯爵邸や現在の帝国ホテルなどの設計で知られています。





「セーヌ川展」は、ブリヂストン美術館所蔵のアルフレッド・シスレー「サン=マメス六月の朝」と、
ひろしま美術館所蔵アルフレッド・シスレー「サン=マメス」
この2点の図版を見ながらセーヌ川の流れに沿った展覧会が出来ないかと考えたのをきっかけで開催されました。
全て「セーヌ川」に関する約130点の作品を日本国内の美術館から集めたのだそうです。


展覧会は五つの構成で、作品を展示していました。


第1章:「セーヌ上流とロワン河畔 」

アルフレッド・シスレー「サン=マメス六月の朝」1884年、ブリヂストン美術館所蔵



アルフレッド・シスレー「サン=マメス」1885年、ひろしま美術館所蔵


第2章:「セーヌと都市風景—パリ」

アンリ・ルソー 《サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島 1888年 世田谷美術館



アルベール・マルケ《ポン・ヌフとサマリテーヌ》(ひろしま美術館)



藤田嗣治 《巴里風景》 1918年 石橋財団ブリヂストン美術館



第3章:「印象派揺籃の地を巡って」

クロード・モネ《花咲く堤、アルジャントゥイユ》(ポーラ美術館)

第4章:「ジヴェルニーと芸術家村」

クロード・モネ《セーヌ河の朝》(ひろしま美術館)





第5章:「セーヌ河口とノルマンディー海岸 」

ギュスターヴ・クールベ《エトルタ海岸、夕日》(新潟県立近代美術館・万代島美術館)



モーリス・ド・ヴラマンク 《曳船、ルーアンにて》1912年 諸橋近代美術館






横浜美術館と同じ音声ガイド機と領収書でした。



この日、買い物して帰ろうと明治屋京橋ストアーによったのですが、


向かいにあった立ち飲みが出来る酒屋さんのあったビルが、



解体されていました。



あの酒屋さんはどうなったんでしょうか、また新しいビルが建っても雰囲気や冷蔵ショーケースとか変わらないで、同じ場所で再開して欲しいです。
私は、外でお酒飲むの好きじゃないので、再開したら写真だけ撮らせて欲しいです。






最後に昨日、「ゴッホ展」に行ったのですが、また長くなるので次回にします。

2010年11月16日火曜日

三笠公園 ~軍艦「みかさ」~

この日、横須賀に来た一番の目的は 「記念艦三笠」を見ることでした。1902年英国のビッカーズ造船所で明治35年(1902年)に作られたイギリス製の軍艦です。世界三大記念艦のひとつです。

この船の知名度は我が国の国民よりも諸外国の船乗りの方々のほうに知れ渡っていて有名なのだそうです。
ワシントン軍縮条約によって三笠は廃艦が決定しましたが、国民から愛された三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが認められ、大正14年に記念艦として横須賀のこの地に移艦されました。


東郷平八郎さんの銅像がありました。肉じゃがの考案者でビールの銘柄にもなってて世界三大提督の一人と呼ばれた人だそうです。この人を祭神とする東郷神社が日本各地にあるそうです。

今の教科書には三笠のことも東郷平八郎のことも載っていないそうなのですが、私の時代はどうだったのでしょか?戦記物などにまったくグッとくるものを感じずに今まで来たので勉強した記憶がありません。


艦尾のスタンウォークとネームプレートです。でかでかと平仮名で「さかみ」と横書き右読みが好いです。今の海軍も、この字体を使っています。


管理棟にチケットの自動販売機があります。一般500円なのですが、自衛官は300円で入れます。なんで優遇されているのでしょうか?、社員割引とかですか?。



『戦艦大和の主砲砲弾』



後部艦橋頂部の羅針盤



後部甲板はテントで覆われています。

1905年以前の後部甲板


三笠公園からは猿島に渡る船も出ていて、15分程で行くことが出来ます。


『60cm信号探照灯』
周囲の艦船に信号を送ったり、暗夜に目標物を探照するために使われました。初期のものは炭素棒を燃やして光源としました。



巨大な煙突が特徴的です。


ベンチレーター 吸気ダクトが並ぶ上甲板部。煙突基部の構造物は映写室や休憩室になっています。


全20門配備された7.6cm速射砲。現代は模造砲です。


『被弾鉄板雪見燈籠』
日本海海戦で射抜かれた三笠の艦材を用いて作られたもので、呉鎮守府から伊藤博文公に贈られ、あとで伊藤家から記念艦三笠に返されたものです。




『機械水雷』
日露戦争当時、日本海軍が使用した機雷で旅順港外に敷設しました。

なんか銃弾らしい後があります。起爆させようとしたのでしょか?。

右舷上甲板上の7.6cm速射砲ナメから見る猿島です。



NHKドラマ『坂の上の雲』の撮影は、石川県にある日本元気劇場内にある「戦艦三笠ミュージアム」で行われたそうです。



中甲板に有る15センチ副砲の砲塔内部です。



戦後GHQが「三笠」の上部構造物を撤去してしまったので、この主砲は模造です。




まだこの時代には軍艦にも、帆走船時代の名残のマストや“スタンウォーク”(Stern Walk 艦尾回廊)があります。
スタンウォークは フネが内燃機関を採用し艦尾が風上でなくなった時点で意味の無い設備とのことなのですが
もう必要なくても艦艇のシンボルとして存在していて、まだ20世紀初頭には船舶ロマンが残っていましたが、大正にはいると軍艦からこういった装飾的なものはだんだん廃止されていきました。


『前部司令塔』
シェルターデッキで被弾時の被害を局限し操艦能力を維持するため、周囲35センチ鋼鉄で囲まれていて、内部には、羅針盤、舵輪(だりん)、通信機などがあります。


『最上艦橋から見た艦首甲板』


大東亜戦争で日本は敗戦し、連合国軍に占領されていた時、戦艦としての機能のない三笠までもをGHQは解体しました。兵装や上部構造物は全て撤去され、取り外せそうな金属類はほとんどがガス切断により持ち去られてしまいました。艦上にはアメリカ軍人のための娯楽施設、ダンスホールと水族館が設置され、おまけに士官公室が「キャバレー・トーゴー」に変わったりとの陵辱行為の嵐です。どれだけ鬼畜米英なんでしょう。

その後復元運動がおこり、昭和36年に現在の姿に復元されました。砲塔や煙突をはじめとする多くは新しく作成されたレプリカです。


最上甲板です。日本海海戦時は東郷平八郎長官が露天艦橋で陣頭指揮をとった場所です。炸裂する爆弾にも動ぜず一点に立ち続け、戦いが終わり彼が艦橋を離れた時、立っていたところに足の跡が白く残ったと言われています。
手前が羅針盤と両脇の筒は伝声管です。奥が測距儀で、敵艦までの距離を測る装置です。





「みかさ」主機戒
メインエンジンで、ヴィッカース社製直立3気筒3連成往複動(レシプロ)蒸気機関を搭載前に撮影した写真です。


[士官室]


司令長官専用浴室です。


『司令長官公室』
さすが100年前のイギリスの船はお洒落です。ブリティッシュな家具が並びます。


『司令長官室』




皇太子の写真はありませんでした。来たこと無いのでしょうか?

『三笠の30cm主砲砲弾』


船内では日露戦争当時の物品を多数展示しています。 竣工から1987年まで取り付けられていた菊のご紋章がありました。


日本海海戦で 日本海軍がロシアのバルチック艦隊を迎え撃った際にとった海戦術である敵前回頭戦法(丁字戦法)をジオラマと動くミニチュアと音声で説明してくれます。

日露戦争というのは、なんでも白人国家に初めてアジアが勝利した戦争なのだそうです。

極東の島国日本が、欧米列強の大国・ロシアに勝利したことにより、世界中の有色人種に自信を与え、白人支配に対する独立運動が世界各地で起きるきっかけになったそうです。




艦首にあたる場所には劇場がありました。




真横に突き出ている、15cm砲、7.6cm砲


舳先は皇居に向け固定されています。
    
私のみかさのファーストインプレッションは凄い巨大でカッコいいなのですが、なんと戦艦大和はもっとデカくて、三笠が全長131mなのに対し、大和は倍の263mもあるのだそうです。
興味がまったく無かったので、恥ずかしながら37年間の私の大和に対するイメージは、 

“巨額を投じて作られたのに速攻で撃沈された情けない船” だったのですが、沸々と軍艦に発露な新しい好奇心が沸いてきたので早速サーチを開始しました。

なんでも大和は、もう敗戦が確定していて、戦闘機の護衛もなく、撃沈されることが分かっていているのに沖縄に特攻に向かったのだそうです。なんという心意気、まさに大和魂。

敵機の攻撃を回避する大和。
    

米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
    

大爆発して沈没(4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分)
   

来年は呉に行ってきます。